近藤誠宏前代表理事が大垣美術家協会で講演

近藤誠宏前代表理事が大垣美術家協会で講演されました。

本年5月21日大垣市スイトピアセンターに於いて、第65回記念大垣美術家協会展覧会の記念行事として「写真:記録と表現」の題目で講演されました。

公演の内容は下記の通りです。

第65回大垣美術家協会総会

2023-05-14講演会2023年5月21日:大垣市文化会館2FスイトピアホールPM2時~

講師:近藤誠宏

「記録と表現」

プロフィール:写真家・近藤龍夫の次男として、昭和16年5月23日。西暦1941年、先の大戦の年に現住所で生れた。

順調に育ち、県立岐阜商業に入学。入学式の大石校長先生の挨拶が今も思い出されます。「君たちは天下に誇れる有能な資質を持った生徒が入学してくれました。3年後には学業はもとより、優秀な健康体で卒業されることです。大切に過ごして下さい。」でした。学業成績の言葉はなく、元気な健康が優先だったから遊べると思った。

当時はすべてに何もない時代であった。岐阜商業を選んだのも高校野球で甲子園出場の応援に行けるであろうことが目的であった。

3年次、私の席の後ろは高木守道さんで後の中日の監督で、彼は私と違い文武両道で優等生でした。その頃になると写真の想い、将来が見えて来たので担任に相談して進学を決めた。担任は「近藤、後ろの席で受験勉強しろ」と伝われた。父親には東京は駄目と云われ、名古屋の愛知大学法経学部を受験、あこがれの写真家、東松照明さんの出身大学に入学できた。心のうちにはフォトジャーナリストへの道があった。多くの先輩が写真家として旅立っている写真部に入部した。

1964年大学を卒業。上京、写真評論家の田中雅夫先生の紹介でマスメディアの広告代理店フォトルーム部に入部。当時、ここは日本一規模のスタジオがあり新車の撮影が出来た。暗室は4×5までのスライド現像ができ、ライトマン、進行、タレントルーム、スタイリスト、カメラマン、小道具係を合わせると総勢58人の陣容だった。スタジオは毎日忙しく、タレント待ちで夜中も使用された。

1966年、スタジオワークを習得したものの広告写真より自分の世界の写真を写したく退社した。

1973年、写真家としての実績が認められて公益社団法人、日本写真家協会に入会、32才、終身番号955。やがて息子の龍宏も入会したから、父子三代の所属は協会初となった。

父と写真活動をともにするようになったが第一線で学んできた自負心が生意気になり父に反発、風土性ではなく違う方向を求めて、石油公害で関心を集めていた四日市石油コンビナート地帯を選んだ。

フォトジャーナリストとして使命感に駆られた挑戦であった。公害の現場での撮影は厳しく、夜の撮影ではときには不審者と疑われ声をかけられた。呼吸困難な患者、目には見えない公害を目の前にして模索し初個展「匿名の町」を1973年、銀座ニコンサロンで発表した。花の銀座での個展に多くの写真家が来館、アドバイスを受けた。中でも「君の写真は場所か」には考えさせられた。告発性よりも叙情性に偏より、公害の内面に入り込めず、表現が弱かったのであった。個展後、暫くカメラを持てず考えた。「記録と表現」が生涯のテーマとなった。

自分の写真に目覚め、美術団体の公募では最大規模の二科展に応募し、9年後特選2回入選7回で会友に推挙された。その年、中部二科展に応募して外遊賞を受賞した。外遊先を決めかねていたとき、岐阜新聞の記事に岐阜県議会議員遺骨調査団が郷土部隊玉砕の地。中部マリアナ諸島への出発を知り、写真家として同行を申し出たところ快諾を得た。その後、個人的にも3度訪れ調査、收骨、取材した。サイパン島・テニアン島。ジャングルの道なき道は標識もなく、生還者の記憶に委ねて歩き、方向もつかめず漂っていた。中でも島の北部は日本に少しでも近いところには自らが掘ったであろう一人密窟が多くあった。ジャングルのタガンタガンの雑木の根が、若くして亡くなった、名もない兵士の遺骨に幾重にも絡み付き、頑丈で、手では離せず繰り返しているうちに、涙がとめどもなく流れた。遺骨を前に知らされることのない人、一人一人の死。短い人生、心なき姿。これらの強烈な体験に、心を終生のテーマとする動機になった。

帰国後、旦本人の心のふるさと京都へ。以前よりも積極的に行くようになった。2年後、銀座ニコンサロンで「法悦視点」を発表した。この頃にはモノクロに抒情性を写し込む私の世界が少しづづ形作れるようになって来た。

7年後、写真集『京都点々累々』の出版記念展として銀座富士フォトサロンで開催。この時のことがいまだに忘れられないでいる。それは、序文をお願いした濆谷浩先生の奥さんが危篤状態にもかかわらず、快く良く引き受けていただき序文の内容も私の心をはるかに越えたものだった。自筆の文をそのまま転載した。

信州伊那谷に、操り人形浄瑠璃が5か所あることを知り取材を開始した。その内の黒田人形浄瑠璃の舞合は国宝であり、毎年神社の催事として上演されていた。大人の公演に先駆けて地元の中学生の課外活動として上演されている。詰め機の学生服、セーラー服による上演姿、地域の伝承伝統を受け継いで行く姿に心奪われた。

1988年新宿ニコンサロン「黒田操り人形浄瑠璃」として発表した。黒子姿で操る人形浄瑠璃よりも、やがて村人が、化粧鮮やかな人間そのものが演じる歌舞伎が全国にひろまって行った。我が地域の中仙道の村々でも地歌舞伎公演が、全国参大地としてささやかれるようになっていった。

そんなおり、岐阜新聞社出版室より岐阜県内の歌舞伎本を出版したいとのことで依頼され、これがライフワークとなった。歌舞伎の魅力は、非日常性、準備する姿を追いながら、役者が役に入り込んで行く姿が、すごく新鮮に見えた。内なる心の姿が出てくる。それを自分が動きを読み込んで捉える。競合と云うのだろうかこのやり取りがいい。

これらの取材分は1999年『美濃の地歌舞伎』として岐阜新聞社から発行された。以後『地歌舞伎振付師松本団升』を撮影出版。・『ぎふ地歌舞伎衣裳』撮影・出版。これらの振興、保存活動をしているのが相生座館長・中仙道ミュージアム館長の小栗幸江さんであり地域、伝承伝統文化部門における彼女の存在は多大である。私が地歌舞伎を取材を始めたときは21団体が現在の活動団体は32団体と云われている。

写真家である以上、写真愛好家との接点はある。指導では表現者としての心の持ちようを粘り強く伝える。単写真よりはテーマ性のある組写真、数点出品のグループ展より個展や物語のある写真集の発表を働きかけている。権威におもねる姿勢を厳しくいさめ、写真は己の心の写し絵。心の純粋性があればあるほどに、いい作品ができる。入選入賞せんが為、選者の傾向に合わせるようでは己の表現ではなくなる。心したいものである。